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2014年4月23日水曜日

ガダルカナル2



パラオ島に上陸、原隊歩兵第百二十四連隊(連隊長 大佐 岡 明之助)、第三大隊(中佐 渡辺 久寿吉)第十一中隊(中隊長 中尉 堀田 耕三)第一小隊(長 大友 浄洲)第二小隊(長 中尉 勝 連益隆)第三小隊は忘却し申し訳ありません。私は第二小隊四分隊(擲弾筒班 長 黒川伍長)に配属され た。翌日から教官 大友少尉、助教 楠 正哉軍曹、助手高森兵長により教練が始まった。


 人事係りの安倍曹長の言う通り、第一線で連戦連勝だから激しい。おまけに此方が祭部隊(大阪編成)~教育を受けているので、鍛え直して検閲も一二四連隊式でやり直せとの連隊長の命令だったそうだ。九州の兵隊と大阪の兵隊はなぜこうも仲が良くないのか、どちらも是もあり非もあるように思うので、双方合わせて折衷すると丁度恰好な兵隊ができないかと思う。
 祭部隊は理を尽くして叩くことはあまりしない。一人前の兵にする為に気合い入れは必要とは思うが、気合い入れの名目で善し悪し構わずよく叩く、ただ人間性の相違は認めざるを得ない。支那兵でも祭部隊の警備地区には攻めてくるが九州の部隊のいるところには襲撃しないくらいに恐れていた。そのような九州の部隊に入隊だから覚悟はしていた。そういうわれらも同地の出身だが人様々十一中隊には博多のワルソウが、三、四人いた。皆十四年徴収で、彼等は初年兵のとき縦列に並び各中隊に決まる時に他の隊の列のい並んでおるのを勝手に呼び寄せ一緒になったらしい。皆上等兵から進級しない。下士官も手に負えぬようだ。今までの戦果により下士官くらいは屁とも思っていないようだ。しかし、初年兵にはよくしてくれた。博多の侠客のつもりだっったかもしれぬその様な古兵がいたから、コロ―ル小学校を宿舎にしたかもしれない。

2014年4月4日金曜日

ガダルカナル戦記

私の親族にガダルカナル、そしてインパールの二つの激戦に参加して生き延びた人がいます。生前手渡された従軍戦記をそのままにしておくのも惜しいノンフィクションです。ここに記して運について考える材料として研究してみたいと思います。


何回かのシリーズになりますが、ご容赦ください。





ガダルカナル戦記

歩兵第百二四連隊 第十一中隊 梅野 博

 

昭和十六年徴集現役兵として、昭和十七年二月一日、菊部隊要員として福岡の西部四十六部隊に入隊した。同年二月二十三日頃、同部隊約八百余名は門司港を出帆、翌日中国の呉松着、すぐに上陸し鉄道にて南京へ移動した。

菊歩兵部隊は祭第九四六五部隊内にあり、同地にて大阪の歩兵から教育を受け警備の任務に付く。教育隊では俗にいう「気合入れ」は滅多になく、各兵器の取り扱い、故障の場合の処置、的確なる照準等、狭窄射撃や、手榴弾も実弾にての投擲訓練など、戦闘に必要なことを十分に教え込まれた。この様な事はその後実戦に非常に役立つことになった。福岡での入隊時は、このような訓練ではなかった。入隊時、兵舎は一杯だったので仮兵舎といて百道の修練道場や西陣小学校にいた。招集の龍部隊がビルマに出発したので部隊の兵舎に入ることができた。近いうちに外地に発つので訓練はあまりなかった。ところが初めての内務班の味をしらされた。聞いていた話のとおりビンタの多いこと、それより飯の少ないことには参った。班長には山盛り、古兵には縁より少し上、初年兵は擦り切れくらいだ。外出していても用意はしておかねばならぬ。外食していても無いと大変だ。無駄だが仕方がない。消灯ラッパの後に終盤上等兵が廻って来て、「初年兵起きろ、どこそこの掃除がなっていない、気合いが抜けとる、今から気合いをいれる」と言って叩く。理屈はどうでもつけ、それが毎晩だった。それが済まないと寝られないのだ。特に二つ星の古兵には腹が立つが仕方がない。こっちは星が一つ、戦陣訓が恨めしい。今頃になって思うがそんな奴らをガ島やコヒマに引っ張っていきたい気がする。

教育隊では、学科でも中隊長のは多岐にわたり、為になる話など勉強になった。質問にも気易く答え、説明してくれ、たまには返答に詰まることもあり和やかな学科であった。約三カ月程教育を受け、兵団長 少将 石川荒三郎閣下の巡視があり教育は終了した。

六月初旬、原隊復帰のため上海出帆。当時、本隊百二十四連隊は第十八師団、菊部隊から分離、川口少将指揮下の沖第八九〇六部隊川口支隊となり、ボルネオ、セブ島などを攻略中だったので、自分たちはマニラに上陸待機、本隊がパラオ島に集結の報にマニラ出港。輸送船には部隊の各隊の人事係が初年兵受領に来ていた。十一中隊の人事係は安倍曹長だ。一人ずつ呼ばれ官姓名を名乗り書類にて確認、自分の番になり型どおりの面通しのあと、「お前は兵器学校志望とあるが我が百二十四連隊は赫々たる戦果をあげ連戦連勝の第一戦の戦闘部隊だ、お前は戦うのが恐ろしいのか」とすごい剣幕で叱る。私は一寸考えたが、これはどうしようもないので、「止めます」と半ば喧嘩腰で答えた。自分は軍の学校に行きたかったが、家庭の事情で叶わず、ついに適齢期となった。その点南京の教育隊は勉強する時間があったので調べると、現役兵からは兵器学校しかなかった。そこで内地から受験勉強書を送ってもらい勉強していたが、原隊ではできることではなかった。