何回かのシリーズになりますが、ご容赦ください。
ガダルカナル戦記
歩兵第百二四連隊 第十一中隊 梅野 博
昭和十六年徴集現役兵として、昭和十七年二月一日、菊部隊要員として福岡の西部四十六部隊に入隊した。同年二月二十三日頃、同部隊約八百余名は門司港を出帆、翌日中国の呉松着、すぐに上陸し鉄道にて南京へ移動した。
菊歩兵部隊は祭第九四六五部隊内にあり、同地にて大阪の歩兵から教育を受け警備の任務に付く。教育隊では俗にいう「気合入れ」は滅多になく、各兵器の取り扱い、故障の場合の処置、的確なる照準等、狭窄射撃や、手榴弾も実弾にての投擲訓練など、戦闘に必要なことを十分に教え込まれた。この様な事はその後実戦に非常に役立つことになった。福岡での入隊時は、このような訓練ではなかった。入隊時、兵舎は一杯だったので仮兵舎といて百道の修練道場や西陣小学校にいた。招集の龍部隊がビルマに出発したので部隊の兵舎に入ることができた。近いうちに外地に発つので訓練はあまりなかった。ところが初めての内務班の味をしらされた。聞いていた話のとおりビンタの多いこと、それより飯の少ないことには参った。班長には山盛り、古兵には縁より少し上、初年兵は擦り切れくらいだ。外出していても用意はしておかねばならぬ。外食していても無いと大変だ。無駄だが仕方がない。消灯ラッパの後に終盤上等兵が廻って来て、「初年兵起きろ、どこそこの掃除がなっていない、気合いが抜けとる、今から気合いをいれる」と言って叩く。理屈はどうでもつけ、それが毎晩だった。それが済まないと寝られないのだ。特に二つ星の古兵には腹が立つが仕方がない。こっちは星が一つ、戦陣訓が恨めしい。今頃になって思うがそんな奴らをガ島やコヒマに引っ張っていきたい気がする。
教育隊では、学科でも中隊長のは多岐にわたり、為になる話など勉強になった。質問にも気易く答え、説明してくれ、たまには返答に詰まることもあり和やかな学科であった。約三カ月程教育を受け、兵団長 少将 石川荒三郎閣下の巡視があり教育は終了した。
六月初旬、原隊復帰のため上海出帆。当時、本隊百二十四連隊は第十八師団、菊部隊から分離、川口少将指揮下の沖第八九〇六部隊川口支隊となり、ボルネオ、セブ島などを攻略中だったので、自分たちはマニラに上陸待機、本隊がパラオ島に集結の報にマニラ出港。輸送船には部隊の各隊の人事係が初年兵受領に来ていた。十一中隊の人事係は安倍曹長だ。一人ずつ呼ばれ官姓名を名乗り書類にて確認、自分の番になり型どおりの面通しのあと、「お前は兵器学校志望とあるが我が百二十四連隊は赫々たる戦果をあげ連戦連勝の第一戦の戦闘部隊だ、お前は戦うのが恐ろしいのか」とすごい剣幕で叱る。私は一寸考えたが、これはどうしようもないので、「止めます」と半ば喧嘩腰で答えた。自分は軍の学校に行きたかったが、家庭の事情で叶わず、ついに適齢期となった。その点南京の教育隊は勉強する時間があったので調べると、現役兵からは兵器学校しかなかった。そこで内地から受験勉強書を送ってもらい勉強していたが、原隊ではできることではなかった。
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